第10部:固有状態の展開と摂動論 —— 複雑な世界を近似する
現実の物理現象において、シュレーディンガー方程式が完璧な数式として解けるケース(調和振動子や水素原子など)は稀です。しかし、私たちは「厳密に解ける問題」を土台にして、そこからのわずかなズレ(摂動)を計算することで、未知の領域を正確に予測することができます。
1. 固有状態による展開:完全性の活用
任意の量子状態 は、あるエルミート演算子(ここでは無摂動のハミルトニアン )の固有状態のセット を基底として展開することができます。 これは、第6部で学んだ完全性の関係 を状態 に作用させることで導かれます。
ここで、 は展開係数(確率振幅)であり、「既知の状態の重ね合わせで未知の状態を記述する」という摂動論の根本的なアイデアとなります。
2. 定常摂動論の定式化
ハミルトニアンが、厳密に解けている部分 と、非常に小さい補正項 (摂動)の和で書けるとします。
ここで は摂動の強さを制御する小さなパラメータです。 求めたい系のエネルギー と固有状態 も、 のべき級数として展開します。
これらをシュレーディンガー方程式 に代入します。
3. 各次数における方程式の分離
の各次数について項をまとめると、次の方程式が得られます。
- 次(無摂動):
- 次(1次摂動):
- 次(2次摂動):
4. 1次エネルギー補正の導出
方程式(1)の左から、無摂動のブラ を掛けます。
はエルミートなので です。これにより左辺第1項と右辺第1項が相殺します。また、規格化 より、次の結果を得ます。
これは「無摂動状態における摂動項の期待値」がそのままエネルギーのズレになることを意味します。
5. 2次エネルギー補正の導出
同様の手順で、状態の1次補正 を と展開して方程式(1)に代入し、 を求めると、2次エネルギー補正 は方程式(2)から以下のように導かれます。
この式は、エネルギー準位が近い状態同士ほど、摂動によって強く反発し合い、エネルギーがシフトするという量子力学の重要な性質を示しています。
6. 摂動論の具体例:調和振動子の代数的解法
摂動論の威力を、第8部で学んだ「生成消滅演算子」を使って実感してみましょう。複雑な波動関数の積分を一切行わず、代数的な計算だけでエネルギーのシフトが導かれます。 ここでは無摂動系を調和振動子()とします。
例1:線形摂動(一定の力が加わった場合)
ポテンシャルに という摂動が加わったとします。位置演算子を で表すと です。
1次補正 : は状態を下げ、 は状態を上げるため、 の計算では必ず異なる状態同士の内積(直交性によりゼロ)になり、1次補正は となります。
2次補正 : 公式に従い、遷移先の状態 について和をとります。 によって作られる状態は と だけなので、 と の2つの項だけが生き残ります。
これらを2乗してエネルギー差( と )で割ります。
なんと量子数 が完全に消え、すべてのエネルギー準位が一律に同じ量だけ下がることが証明されました。
例2:非調和振動子(4次の摂動)
次に、ポテンシャルが少し歪んだ という摂動を考えます。
4乗を展開するのは大変ですが、ブラ・ケット記法の美しいテクニックがあります。 は、状態ベクトル の自身の内積 (ノルムの2乗)とみなせます。
まず を作用させます。
このベクトルの大きさの2乗は、互いに直交する各成分の係数の2乗の和になります。
これを代入するだけで、複雑な積分なしに1次補正が求まりました。
エネルギー準位が上がるにつれて( が大きくなるにつれて)、シフト量が急激に大きくなることがわかります。
インタラクティブ・シミュレーター:非調和振動子のエネルギーシフト
4次の摂動 を加えたときの「準位の不等間隔化」と「波動関数の歪み」を観察しましょう。
非調和振動子:V = 1/2 x² + α x⁴
※ α > 0 では ΔE が一定ではなくなり、高い準位ほど間隔が広がります。