第9部:期待値と不確定性関係 —— 決して同時に測れない理由
量子力学の世界では、粒子の「位置」や「運動量」をピンポイントで確定させることはできません。私たちが計算できるのは、その値が平均的にどれくらいになるかという「期待値」と、どれくらいバラつくかという「不確定さ(分散)」だけです。 この章では、ブラ・ケット記法を用いて、量子力学最大の定理**「ケナード・ロバートソンの不等式(不確定性原理の一般化)」**を導きます。
1. 期待値:演算子をベクトルで「はさむ」
ある物理量 の期待値 は、古典的な確率論では「値 確率」の積分 です。 量子力学において、位置 で粒子を見出す確率密度 は波動関数の絶対値の2乗 であり、これは と表現されます。
これを積分の式に代入し、完全性の関係 を利用すると、期待値の計算は次のように非常にシンプルになります。
つまり、期待値とは、状態ベクトル で演算子を「はさむ(サンドイッチする)」ことに他なりません。
2. 不確定性の定義:平均からの「ズレ」
物理量がどれくらいバラついているかを測るため、期待値からのズレ を考えます。このズレの2乗の期待値が「分散(ばらつきの大きさ)」です。
3. ケナード・ロバートソンの不等式:厳密な証明
2つの物理量 と の不確定さの積には、決して超えられない数学的な「底」が存在します。これを証明するために、コーシー・シュワルツの不等式(ベクトルの内積の2乗は、長さの積を超えない)を適用します。
演算子の交換関係 を考慮して丁寧に計算を進めると、次のケナード・ロバートソンの不等式が導かれます。
位置 と運動量 を代入すると、基本交換関係 より、有名な不確定性関係が得られます。
注意すべき本質: 不確定性は「測定器の精度」や「測定時の乱れ」によるものではありません。 証明が示す通り、これは状態 自体が持つ数学的な性質です。位置を絞れば波長が定義できなくなり、波長(運動量)を絞れば位置が広がるという、波としての宿命なのです。
4. 調和振動子の基底状態と「最小不確定性」の証明
この不確定さの積が、理論的な下限である にピッタリ一致する「最もお行儀の良い」状態は何でしょうか? 実は、それが第8部で学んだ調和振動子の基底状態 (ガウス波束)です。
なぜそうなるのか、波動関数をフーリエ変換する面倒な積分計算は捨てて、前章で手に入れた生成消滅演算子を使ってエレガントに証明してみましょう。
基底状態 は対称性から平均位置も平均運動量もゼロ()です。したがって、分散は単純に と になります。 ここで、第8部の と の定義式を逆算し、位置 と運動量 を演算子で表します。
これを2乗して、基底状態でサンドイッチ()します。 (消滅演算子は基底状態を消す)という性質を使うと、展開した項のうち だけが生き残り、 となります。 結果として、それぞれの分散は驚くほど簡単に求まります。
では、これらを掛け合わせて「不確定さの積」を計算してみましょう。
見事に調和振動子のパラメータ(質量 や角振動数 )が約分されて完全に消滅し、不確定性原理の下限値 にピッタリ一致しました!
ポテンシャルの強さ を変えれば、空間的な広がり(分散)はコントロールできますが、その代償として運動量の分散が完全に反比例して変化するため、積は絶対に を下回りません。これが、調和振動子の基底状態が最小不確定性状態と呼ばれる数学的な理由です。
インタラクティブ・シミュレーター:不確定性のトレードオフ
調和振動子の基底状態(最小不確定性状態)を対象に、位置と運動量の観測をシミュレートします。 スライダーで波束の幅パラメータ (ポテンシャルの緩やかさ に対応)を操作してください。
- を小さく(ポテンシャルを急峻に)すると、位置 の分布は鋭くなりますが、運動量 の分布は激しく広がります。
- 逆に を大きくすると、運動量は一点に集まりますが、どこに粒子がいるか分からなくなります。
どちらを絞っても、下のパネルに表示される「分散の積」の計算ではパラメータが見事に打ち消し合い、理論的下限()に留まり続けるという数学の魔法を体験してください。
位置空間の分布 |ψ(x)|²
運動量空間の分布 |φ(p)|²
※ σ_x を変えると位置と運動量の「広がり」がトレードオフの関係にあることが分かります。