補遺: 量子力学の基礎
量子アニーリングを「横磁場を弱める最適化法」とだけ聞くと、計算手順はわりあい素朴に見えます。しかしその中身は、波動関数、演算子、交換関係、固有値問題、不確定性関係という量子力学の基本語彙でできています。ここを一度ていねいに歩いておくと、横磁場、エネルギーギャップ、断熱条件、量子ビットの設計が急に地続きに見えてきます。
この補遺では、一次元の波動関数から出発し、Fourier変換、演算子、ブラケット表示、交換関係、反交換関係、期待値、不確定性関係までをまとめます。情報科学の読者に向けて言えば、量子力学は「状態ベクトルを用意し、観測したい量を線形演算子として作用させ、内積で統計量を取り出す」理論です。怖い顔をしていますが、芯には線形代数があります。
1. Schrodinger方程式
一次元の粒子を考えます。粒子の状態は、位置
で表されます。これを波動関数と呼びます。量子力学の基本方程式は
です。左辺は時間変化、右辺はエネルギーを表します。
と書けば、Schrodinger方程式は
という短い形になります。
古典力学では、粒子の位置
が確率密度です。したがって、全空間で粒子を見つける確率は1でなければなりません。
この正規化条件は、後でブラケット表示に移したときに
2. 定常状態と固有値問題
ポテンシャルが時間に依存しない場合、Schrodinger方程式の解を
と分けて考えることができます。これを代入すると、時間に依存しない方程式
が得られます。これは固有値方程式です。ハミルトニアンを作用させても形が変わらず、数
この段階で、量子力学が線形代数に見えてきます。
行列
3. 波動関数の例: 一定ポテンシャル
まず
です。整理すると
となります。二回微分して符号が反転し、元の関数に戻るものを探せばよいので、一般解は
です。
この
と対応します。すると運動エネルギーは
となり、全エネルギー
コラム 2024大学院講義 第1回 1:19:00-1:31:00
波から運動量を引き出す
平面波 $e^{ikx}$ を微分すると $ik$ が出てきます。講義では、この「肩に乗っている波数を微分で引き出す」感覚から、運動量演算子 $-i\hbar\partial_x$ が導入されました。運動量は最初から波動関数の横に置かれている数字ではありません。波として書かれた状態に、どんな操作をすれば運動量らしい数字が出るのかを考えた結果として現れます。
ここでCompton散乱の話が効いてきます。波長が変わる光と、弾き飛ばされる電子の運動量を比べると、光も運動量を持つと考えざるを得ないです。$p=h/\lambda=\hbar k$ という関係は、式の都合ではなく、波と粒子の二つの顔を同じ実験の中で見た結果です。
一定ポテンシャル中に電子や原子が置かれていると考え、定常Schrodinger方程式を二階線形微分方程式として解きます。ハミルトニアンは運動エネルギーの微分演算子と一定値 $V_0$ からなり、式を整理すると $E-V_0$ が運動エネルギーとして残ります。
この微分方程式の解は、右向きと左向きの平面波 $Ae^{ikx}+Be^{-ikx}$ です。代入してみると、二階微分が $-k^2$ を返し、$\hbar^2 k^2/(2m)+V_0=E$ という見慣れたエネルギー保存の形が出てきます。量子力学の式は急に神秘的になるのではなく、波を微分したときの性質から少しずつ組み上がっています。
では、この $k$ は何を意味するのでしょうか。講義では、Compton散乱を通して、光の波長変化と電子の反跳運動量を比べる発想が持ち込まれます。電子の運動量は磁場中の曲がり方から測れます。運動量保存を信じるなら、光にも $h/\lambda$、すなわち $\hbar k$ の運動量を割り当てなければならない、というわけです。
この実験的な見方を波動関数へ戻すと、運動量は波の肩にある $k$ を取り出す操作として現れます。$e^{ikx}$ を微分して $ik$ を出し、$-i\hbar$ を掛ける。こうして $-i\hbar\partial_x$ が運動量演算子になる、という導入は、波と粒子の二つの顔を同じ数式の中に置くための、ごく自然な手順になります。
4. Fourier変換と運動量表示
波動関数は位置
逆変換は
です。ここで大切なのは、
Fourier変換の基本性質として、位置微分は運動量表示では掛け算になります。
したがって
です。これが、位置表示での運動量演算子
を導く一番素直な道です。
コラム 2024大学院講義 第3回 0:57:00-1:09:00
Fourier変換として量子力学を見る
Fourier変換は、微分演算を波数の掛け算に変える装置です。講義では、その矢印を逆に読むと、運動量という数を微分演算子に置き換える第1量子化が見えてくる、と説明されました。ここに気づくと、教科書に突然現れる「$p$ を $-i\hbar\partial_x$ に置き換える」という操作が、かなり自然なものに変わります。
もう一つの味わいは、Fourier変換とFourier級数の違いです。自由空間では連続的な $k$ を積分しますが、閉じ込められた領域や周期境界条件では離散的な $k$ を足し合わせます。量子力学の「飛び飛び」は、閉じ込めとFourier級数展開の側から見ると、ずいぶん日常的な数学の顔をしています。
位置と運動量は、古典力学のように同じ机の上に置ける量ではなく、Fourier変換で結ばれた二つの見方として現れます。位置の関数として波動関数を書くか、波数や運動量の関数として書くか。その移り変わりの中心に、微分を掛け算へ変えるFourier変換があります。
講義では、「量子力学はFourier変換だ」と言い切る勢いで、この見方が強調されます。もちろん量子力学のすべてがFourier解析に尽きるわけではありません。しかし、波で状態を表し、座標微分や時間微分から運動量やエネルギーを取り出す、という入口だけを見るなら、Fourier変換は非常に強力な地図になります。
さらに、量子力学の「飛び飛び」はFourier級数の側から見ると理解しやすくなります。無限に広がる空間では連続的な波数を積分しますが、有限区間や周期境界条件では、許されるモードを離散的に足し合わせます。箱の中に閉じ込めると波数が離散化し、その結果としてエネルギー準位も離散化する、という流れです。
古い教科書には、量子力学が作られた時代の手探りも一緒に残っています。講義では、その歴史的な混乱を怖がらず、むしろ冷静に読みほぐす態度が勧められます。Schrodinger方程式を見たときに、まず「これはどんな波をFourier的に分解しているのか」と考えると、量子化の入口がかなりなめらかになります。
5. 演算子とブラケット表示
位置表示では
です。運動量表示では役割が入れ替わり、
となります。
ブラケット表示を使うと、同じ状態
と書けます。運動量で見るなら
です。位置固有状態と運動量固有状態の重なりは
であり、これがFourier変換の核です。
状態そのものは
と展開できます。したがって、恒等演算子は
です。これは、好きな基底で展開しても状態そのものは変わらない、という線形代数の基本そのものです。
6. Hermitian演算子
物理量を表す演算子は、測定値が実数でなければなりません。そのため、標準的にはHermitian演算子
として表されます。
ハミルトニアンも物理量なのでHermitianです。量子力学でエネルギーが実数として出てくるのは、ハミルトニアンがHermitianであることに支えられています。
7. 交換関係と反交換関係
二つの演算子
と定義します。反交換子は
です。位置と運動量について計算すると、
ですから、
が成り立ちます。
Hermitian演算子
です。交換子は反Hermitian、反交換子はHermitianになります。物理量どうしを交換した差は純虚数的な量になり、足し合わせた反交換子は実数的な量になります。この性質は、不確定性関係の導出でそのまま効いてきます。
コラム 2024大学院講義 第4回 1:18:00-1:32:00
交換しないことを微分で見る
$x$ を掛けてから微分するのと、微分してから $x$ を掛けるのは同じではありません。実際、微分は積の微分を持ち込むので、余分に $\psi(x)$ が一つ出てきます。この小さな余分が $[\hat x,\hat p]=i\hbar$ です。交換関係は抽象的な記号遊びではなく、微分と掛け算の順番の違いとして手で確認できます。
講義では、交換子が純虚数的、反交換子が実数的になるという性質も強調されました。これは後で、不確定性関係の右辺に交換子が、共分散の部分に反交換子が現れる理由になります。
交換関係は、抽象的な記号だけで覚えると遠く見えます。講義では、位置表示で状態 $\psi(x)$ を左右から挟み、$x$ を掛けてから微分する場合と、微分してから $x$ を掛ける場合を比べます。量子力学は「挟んでなんぼ」という言い方の通り、演算子の意味は状態に作用させて初めて手触りを持ちます。
計算は積の微分だけです。$\hat x\hat p\psi=x(-i\hbar\,d\psi/dx)$ に対して、$\hat p\hat x\psi=-i\hbar\,d(x\psi)/dx$ には余分な $\psi$ が出ます。この一項が残るため、$[\hat x,\hat p]\psi=i\hbar\psi$、つまり $[\hat x,\hat p]=i\hbar$ となります。厳密には右辺は恒等演算子倍ですが、物理では文脈が明らかなときに単位演算子を書かないことがよくあります。
続いて反交換子 $\{\hat A,\hat B\}=\hat A\hat B+\hat B\hat A$ が導入されます。Hermitian演算子どうしなら、交換子のdaggerは符号が反転し、反交換子のdaggerは元に戻ります。したがって交換子は反Hermitian、反交換子はHermitianです。
この区別は、不確定性関係の計算でそのまま効きます。交換しないことが量子性の核心であり、反交換子は共分散のような実数的情報を運びます。微分と掛け算の順序差から始まった小さな計算が、Kennard--Robertson型の不確定性関係へつながっていく、という流れがここで見えるようになります。
8. 期待値と分散
測定可能な物理量
です。位置の関数
となります。確率密度
ゆらぎを表すため、平均との差を
と置きます。分散は
です。標準偏差は
ここで大切なのは、量子力学の予言が基本的に確率分布として与えられることです。一回の測定結果は揺らぎます。理論が与えるのは、多数回の測定で得られる平均、分散、相関です。量子コンピュータで同じ回路を何度も実行する shots の考え方も、この統計的な読み方の上にあります。
9. Kennard--Robertsonの不確定性関係
Cauchy--Schwarzの不等式
を使います。ここで
と置くと、
を得ます。積
です。反交換子の期待値は実数、交換子の期待値は純虚数になるので、絶対値二乗はそれぞれの寄与の和になります。交換子だけを残して下から評価すれば、
となります。これがKennard--Robertsonの不確定性関係です。
位置と運動量では
です。
古い説明では、位置を測ろうと光を当てると粒子が蹴られて運動量が乱れる、という話がよく登場します。それは測定の直観として役に立ちますが、ここで導いた不等式そのものは測定器の粗さから来たものではありません。状態ベクトルと演算子で量子力学を書くと、Cauchy--Schwarzの不等式だけで避けられない下限が出ます。量子力学の不確定性は、実験が下手だから出る誤差ではなく、状態の表現そのものが持つ幾何学的な制約です。
10. 量子アニーリングへ戻る
量子アニーリングで使う横磁場ハミルトニアンは、典型的には
です。一方、最適化問題を埋め込むIsing ハミルトニアンは
のように書かれます。
です。この交換しなさが、古典的なビット列の上をただ確率的に動くのではなく、量子力学的な重ね合わせを通じて状態を遷移させる源になります。
「横磁場をかける」という一言の下には、ここまでの道具が全部入っています。波動関数は状態ベクトルになり、物理量は演算子になり、交換関係が揺らぎを生み、ハミルトニアンの固有状態を追う問題として計算が定式化されます。量子アニーリングは、この基礎語彙を最適化問題へ向けて組み替えたものです。
PDF画像で板書を追う場合は、大学院講義2024ノート p.1、大学院講義2024板書 p.5、p.11から、Schrodinger方程式、平面波、交換関係、不確定性関係の流れを確認できます。
