補遺: 静的近似の破れ
量子アニーリングの平均場解析では、Suzuki--Trotter分解を行ったあと、秩序変数が虚時間方向に依存しないと仮定することが多いです。この仮定が静的近似です。p-spin模型、Hopfield模型、反強磁性XX項、不均一横磁場の話では、静的近似のおかげで最後に
ただし、静的近似は「いつも正しい公式」ではありません。横磁場がある量子スピングラスでは、虚時間方向の相関そのものが物理を運ぶことがあります。秩序変数を
1. 静的近似で何を捨てているか
横磁場つきの平均場ハミルトニアンを考えます。
分配関数
を導入します。制約はいつものようにデルタ関数で入れます。
すると分配関数は概略
になります。横磁場は虚時間方向の結合
に変わります。ここまでは近似ではありません。近似が入るのは次の一行です。
この仮定により、虚時間方向の有効一次元鎖を、ふたたび一スピンの量子問題へ戻せます。たとえば
となります。静的近似が便利なのは、このように虚時間の関数
しかし、式 (eq-sa-break-006) は強い仮定です。横磁場があると、スピンは虚時間方向に反転します。したがって、同じサイトの別時刻相関
は、一般には
も必要になります。静的近似は、これらを
のように定数へ置く操作です。つまり、静的近似とは「秩序変数が虚時間の形を持つ可能性」を捨てる近似です。
2. 破れをどう見るか
静的近似の破れを調べる基本は、静的解のまわりに虚時間依存の揺らぎを入れることです。
虚時間方向は周期的なので、揺らぎをFourierモードで書けます。
静的近似は
です。すべての非零モードで
この見方は、詳細な計算をする前の羅針盤になります。強磁性平均場模型のように一つの磁化が支配する系では、非零モードが効かず静的近似が正当化されることがあります。一方、スピングラス相では、状態の多さと横磁場による虚時間反転が絡むため、
3. 横磁場スピングラスで起こること
Sherrington--Kirkpatrick模型は、ランダム結合を持つ全結合Isingスピングラスの基本模型です。横磁場を入れると、古典的な重なり
Obuchi--Nishimori--Sherringtonが詳しく調べたのは、SK模型そのものというより、その系譜にある強磁性バイアスつきの
結合
を入れます。
と置きます。ハバード--ストラトノビッチ変換を使うと、レプリカ間結合と同一レプリカ内結合は二つのガウス場へ分解されます。
そして一スピン量子問題のトレースから
が出ます。静的近似のレプリカ対称自由エネルギーは
です。鞍点方程式は
と、
QPは量子常磁性相、CPは古典常磁性相、Fは強磁性相、SGはスピングラス相です。
ただし、ここで油断してはいけません。レプリカ対称解ではSG相の自由エネルギーが不自然になり、正しいSG相には1段階レプリカ対称性の破れが必要です。
になります。つまり、静的近似の問題とレプリカ対称性の破れの問題は別々に見なければなりません。静的近似を置くかどうか、レプリカ対称性を保つかどうか。この二つを混ぜると、何が悪かったのか分からなくなります。
4. 虚時間依存の摂動による静的解の安定性
Obuchi--Nishimori--Sherringtonの計算で特に大事なのは、静的近似を仮定したあとで、その仮定を点検したことです。静的解のまわりに
有効ハミルトニアンを
と分け、
一方、QP相では事情が違います。虚時間相関
を使うと、静的解のまわりの解析から
のような虚時間依存が現れます。静的近似の
この結果は、静的近似との付き合い方をかなり正直に教えてくれます。相図だけを描きたいとき、ある極限では静的近似が正しい自由エネルギーを与えることがあります。しかし、量子ゆらぎが強い相では、虚時間相関を見れば近似の中で捨てたものが戻ってきます。静的近似は、便利な入口であって、最後の検査ではありません。
5. 静的近似が厳密になる平均場量子スピン系
静的近似が怪しい場面を見たあとで、今度は逆に、静的近似が本当に正しくなる場合を見ます。Okuyama--Ohzekiは、かなり広い平均場量子スピン系について、虚時間依存を捨てずに分配関数を扱い、結果として静的近似と同じ解が最適になることを示しました。
扱うハミルトニアンは
です。縦方向にも横方向にも、全体平均の関数だけが入っています。有限個の記憶パターンを持つHopfield模型、反強磁性XX項つきの平均場模型、不均一横磁場を持つ平均場p-spin模型は、この形に含まれます。
静的近似をしないでTrotter表示を残すと、秩序変数
は虚時間の関数です。一見すると無限次元の変分問題になります。ここで発想を変え、Trotter方向の積を虚時間Schrodinger方程式として読みます。
分配関数は、終端で得られるベクトルの成分和として読めます。したがって、虚時間依存する秩序変数をどう選べば分配関数が最大になるか、という問題になります。これは、制御関数が
Pontryagin型の条件を使うと、最適経路は静的な鞍点方程式を満たします。静的な解での有効場を
と書くと、自己無撞着方程式は
です。これは、静的近似から得られる鞍点方程式そのものです。
この結果は、この講義ノートの多くの平均場計算を支える安心材料になります。反強磁性XX項による一次転移回避や、不均一横磁場による一次転移回避は、静的近似だけに乗った危うい絵ではありません。少なくとも式 (eq-sa-break-028) に入る平均場クラスでは、虚時間依存を許しても静的解が最適になります。
同時に、限界もはっきりしています。式 (eq-sa-break-028) は、有限個の平均場秩序変数で書ける系です。スピングラス相のように、レプリカ間重なり
6. 有限Trotterサイズにおける記憶模型のレプリカ対称解
横磁場Hopfield模型では、記憶パターンの数が有限なら、式 (eq-sa-break-028) の平均場クラスに入り、静的近似が正確になります。では、記憶パターン数が
Okajima--Kabashimaは、横磁場Hopfield模型を有限Trotterサイズ
です。Trotter表示では
となります。ここで
です。
一つの記憶を取り出す相を見たいので、第一パターンを
さらに、記憶との重なり
を入れます。レプリカ対称自由エネルギーは、
有効ハミルトニアンは、虚時間方向に
ここで
虚時間方向に並進対称性があるため、
通常の静的近似は、このうちゼロモードだけを残す近似だと読めます。しかし、Okajima--Kabashimaの解析で面白いのは、もう少し弱い条件が自然に現れることです。共役行列
このとき、ガウス場は
qSAの自己無撞着条件の一部は
と書けます。通常の静的近似は、さらに
つまり、qSAは「外場の乱れは静的に見える」という仮定で、SAは「相互作用の虚時間構造も静的に潰す」という追加の近似です。この差は小さく見えますが、概念的にはかなり大きいです。有限Trotterサイズで
qSAの安定性は、非零Fourierモードを入れて調べます。有効模型の連結相関の
です。一方、レプリカ対称性そのものの安定性、古典スピングラスでいうde Almeida--Thouless条件に対応するものは、同じ式の
この結果から、横磁場Hopfield模型では次のような見方が得られます。静的近似は厳密ではありません。実際、有限Trotterサイズで見ると、
これは「静的近似を使ってよい」と雑に言っているのではありません。より正確には、次の順番で理解します。
だけを見るなら、retrieval相では静的な磁化が自然に出ます。 - クロストークノイズは
と という虚時間行列を作ります。 - qSAでは、外場のガウス揺らぎはゼロモードで閉じる。
- SAは、さらに
の非零モードを捨てるrank-one近似です。 - 有限Trotter計算では、このrank-one近似の誤差を直接測れる。
静的近似が破れるかどうかは、白黒ではありません。自由エネルギー、相境界、相関関数、安定性条件のどれを見るかで答えが違います。Okajima--Kabashimaの有限Trotter解析は、その違いを切り分けるためのきれいな道具になっています。
7. 使い分けの指針
平均場量子アニーリングの式を読むとき、静的近似は最初の地図として非常に強い力を持ちます。p-spin模型、non-stoquastic触媒、不均一横磁場、リバースアニーリングでは、自由エネルギー地形を短い式で描ける。この見通しのよさは捨てる必要がありません。
しかし、スピングラス相や多数パターンHopfield模型では、虚時間相関が研究対象そのものになります。その場合は、少なくとも次の点を点検したくなります。
- 秩序変数が有限個の平均場変数で閉じるか。
や を定数にしたとき、低温エントロピーや相関関数が不自然にならないか。 - 非零Fourierモードの安定性を見たか。
- レプリカ対称性の破れと静的近似の破れを区別したか。
- 静的近似で得た相図を、有限TrotterサイズのQMCや有限サイズ対角化と照合したか。
この補遺の結論は、静的近似を怖がることではありません。むしろ逆です。静的近似は、どこで正確になり、どこで破れ、破れたとき何が足りなくなるかまで含めて使うと、量子アニーリングの相図を読む強い言語になります。計算を楽にするための仮定で終わらせず、仮定そのものを物理として調べます。そこから、平均場模型の解析は一段深くなります。
参考文献
- Tomoyuki Obuchi, Hidetoshi Nishimori, David Sherrington, “Phase Diagram of the p-Spin-Interacting Spin Glass with Ferromagnetic Bias and a Transverse Field in the Infinite- p Limit,” Journal of the Physical Society of Japan 76, 054002 (2007). 出典
- Manaka Okuyama, Masayuki Ohzeki, “An exact solution of the partition function for mean-field quantum spin systems without the static approximation,” arXiv:1808.09707 (2018). 出典
- Koki Okajima, Yoshiyuki Kabashima, “Exact Replica Symmetric Solution for Transverse Field Hopfield Model under Finite Trotter Size,” Journal of the Physical Society of Japan 94, 044005 (2025). 出典
