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補遺: 量子コンピュータの要素 ​

量子コンピュータは、ただ「0と1が同時にある不思議な機械」ではありません。物理的には、よく制御された二準位系を作り、外場や相互作用でハミルトニアンを設計し、その時間発展を計算に使う装置です。量子アニーリングマシンでは、この考えがとくに露骨に現れます。量子ビットを並べ、Ising模型を作り、横磁場をかけ、最後に測定します。装置の中身をそのまま言葉にすると、統計力学と量子力学が重なった一つの実験系になります。

1. 二準位系としての量子ビット ​

量子ビットは、二つの基底状態

|0⟩,|1⟩

で張られる二次元Hilbert空間です。一般の純粋状態は

|ψ⟩=α|0⟩+β|1⟩,|α|2+|β|2=1

と書けます。α,β は確率そのものではなく確率振幅です。測定すると、|0⟩ が出る確率は |α|2、|1⟩ が出る確率は |β|2 になります。

現実の物理系には無数の準位があります。その中から二つだけを選び、他の準位へ漏れないように制御したものが量子ビットです。ハミルトニアンの固有値問題として書けば、

H^|n⟩=En|n⟩

であり、低い二つの準位を

|0⟩=|n=0⟩,|1⟩=|n=1⟩

として使います。

2. 閉じ込めると飛び飛びになる ​

量子ビットを作る第一歩は、粒子や集団自由度を閉じ込めることです。たとえば長さ L の一次元箱で、境界条件

ϕ(0)=ϕ(L)=0

を課すと、許される波数は

kn=nπL,n=1,2,…

に限られます。エネルギーは

En=ℏ2kn22m=ℏ2π22mL2n2

となり、離散化します。

リングに閉じ込める場合は周期境界条件

ϕ(x+2πa)=ϕ(x)

を課します。このとき

kn=na,En=ℏ2n22ma2

です。自由空間では連続だった波数が、閉じ込めによって飛び飛びになります。量子ビットとは、この飛び飛びになった準位のうち、都合のよい二つを使う設計です。

コラム 2024大学院講義 第2回 1:23:00-1:30:00

閉じ込めて二準位を作る

講義では、井戸型ポテンシャルや量子ドットを入口にして、低エネルギー側の二つの準位だけを取り出す考えが説明されました。量子ビットは、どこかに抽象的に浮いているものではなく、閉じ込められた電子や回路自由度の離散準位を、情報の単位として使うものです。

この説明が効くのは、量子力学の最初に出てくる箱の中の粒子が、量子コンピュータの部品設計に直結しているからです。入門の例題は、実はかなり現代的な入口でもあります。講義では、そこで急に飛ばず、どこで実験が難しくなるのか、どの二準位を情報として読むのかを一つずつつないでいました。

3. 超伝導量子ビット ​

超伝導回路では、電荷や磁束が量子化されます。超伝導リングを考えると、磁束量子

Φ0=h2e

が自然な単位になります。リングを貫く磁束が整数または半整数に近い条件で、時計回り・反時計回りの永久電流状態がほぼ同じエネルギーを持つように調整できます。この二つの状態を

|↻⟩,|↺⟩

と書くと、二準位近似のハミルトニアンは

H^qb=−ϵ2σ^z−Δ2σ^x

のように表せます。ϵ は二つの井戸のエネルギー差、Δ は量子トンネルによって二つの状態が混ざる強さです。

Josephson接合は、この回路を単なる調和振動子からずらす役割を持ちます。調和振動子では隣り合う準位間隔が等しく、二つの準位だけを選んで操作しにくいです。非調和性があれば、|0⟩↔|1⟩ の遷移だけを選んで駆動しやすくなります。

コラム 2024大学院講義 第2回 1:39:00-1:45:00

超伝導リングから人工スピンへ

超伝導リングに磁束を入れると、永久電流の向きで二つの状態を作れます。これを人工スピンとして使い、さらに多数並べて結合すれば、Ising模型を実験装置として作ることができます。

講義で印象的なのは、装置を作った人への敬意がそのまま物理の理解につながっているところです。量子ビット一個でも十分に繊細で、それを数千個並べ、相互作用まで制御するのは、式の美しさとは別種の難しさを持っています。

4. Pauli行列と一量子ビット操作 ​

二準位系の基本演算子はPauli行列です。

σ^x=(0110),σ^y=(0−ii0),σ^z=(100−1)

σ^z は |0⟩,|1⟩ を区別し、σ^x は両者を反転させます。

σ^x|0⟩=|1⟩,σ^x|1⟩=|0⟩

時間発展は

|ψ(t)⟩=e−iH^t/ℏ|ψ(0)⟩

です。ハミルトニアンに σ^x が含まれれば |0⟩ と |1⟩ が混ざり、σ^z が含まれれば二つの状態にエネルギー差がつきます。

5. 多量子ビットとテンソル積 ​

二つの量子ビットを持つと、基底は

|00⟩, |01⟩, |10⟩, |11⟩

です。これはテンソル積

|ab⟩=|a⟩⊗|b⟩

で作られます。一番目の量子ビットだけに σ^z を作用させるなら、

σ^1z=σ^z⊗I^

です。二番目だけなら

σ^2z=I^⊗σ^z

となります。相互作用は

σ^1zσ^2z=σ^z⊗σ^z

です。添字だけで σ1zσ2z と書かれることが多いのですが、中身はテンソル積でできた大きな行列です。

6. Ising模型 ​

古典Ising模型は、スピン変数 σi=±1 に対して

E(σ)=−∑ihiσi−∑ijJijσiσj

というエネルギーを与えます。hi は局所場、Jij は相互作用です。組合せ最適化問題では、ビット列をスピン配位に対応させ、このエネルギーが小さい状態を良い解と見なします。

量子版では、σi を演算子 σ^iz に置き換えます。

H^0=−∑ihiσ^iz−∑ijJijσ^izσ^jz

これは計算基底では対角行列です。つまり、各ビット列にエネルギーを割り当てているだけです。

そこに横磁場を足すと、

H^(t)=A(t)H^TF+B(t)H^0,H^TF=−∑iσ^ix

となります。A(t) を大きくしておくと、初期状態は全ビットの重ね合わせに近くなります。時間とともに A(t) を下げ、B(t) を上げると、最終的に H^0 の低エネルギー状態を読み出す、というのが量子アニーリングの基本形です。

コラム 2024大学院講義 第6回 1:25:00-1:43:00

Ising模型を装置として作る

Ising模型は、紙の上では $\sum J_{ij}\sigma_i\sigma_j$ という短い式です。しかし量子コンピュータ側から見ると、これは量子ビットを並べ、局所場と結合器を調整して、大きなハミルトニアンを物理的に作る作業です。

講義では、$\sigma_i^z$ や $\sigma_i^x$ の添字が省略のかたまりであることも丁寧に展開されました。一つの記号の奥には、テンソル積で膨れ上がる行列があり、その行列を実機のパラメータで動かすところに量子コンピュータの計算があります。

7. 測定と読み出し ​

最終時刻で計算基底を測定すると、ビット列 σ が確率的に得られます。理想的には、最終状態が H^0 の基底状態に近いほど、低エネルギーの解が高い確率で出ます。

P(σ)=|⟨σ|ψ(T)⟩|2

一回の測定で必ず最適解が出るとは限りません。したがって、量子アニーリングでもゲート型量子計算でも、同じ設定で何度も実行し、サンプル分布を見ます。物理の言葉では測定統計、計算の言葉ではサンプリングです。

8. 量子コンピュータの要点 ​

量子コンピュータの要素を短くまとめると、次の四つです。

  1. 二準位系を作ります。
  2. 二準位系を十分に孤立させ、余計な準位へ漏れないようにします。
  3. Pauli演算子と相互作用を使ってハミルトニアンを設計します。
  4. 時間発展後に測定し、確率分布として結果を読みます。

量子アニーリングは、この四つをIsing模型に特化させた形です。だからこそ、量子力学の基礎、Ising模型、断熱定理、MCMC、統計力学が同じ講義の中に並びます。分野名は違っても、計算したいものは「状態がどこへ行くか」と「その状態をどう読み出すか」です。

PDF画像では、大学院講義2024板書 p.16以降で閉じ込めと量子ビット、p.24以降でPauli行列、テンソル積、横磁場Ising模型の流れを確認できます。