補遺: 量子コンピュータの要素
量子コンピュータは、ただ「0と1が同時にある不思議な機械」ではありません。物理的には、よく制御された二準位系を作り、外場や相互作用でハミルトニアンを設計し、その時間発展を計算に使う装置です。量子アニーリングマシンでは、この考えがとくに露骨に現れます。量子ビットを並べ、Ising模型を作り、横磁場をかけ、最後に測定します。装置の中身をそのまま言葉にすると、統計力学と量子力学が重なった一つの実験系になります。
1. 二準位系としての量子ビット
量子ビットは、二つの基底状態
で張られる二次元Hilbert空間です。一般の純粋状態は
と書けます。
現実の物理系には無数の準位があります。その中から二つだけを選び、他の準位へ漏れないように制御したものが量子ビットです。ハミルトニアンの固有値問題として書けば、
であり、低い二つの準位を
として使います。
2. 閉じ込めると飛び飛びになる
量子ビットを作る第一歩は、粒子や集団自由度を閉じ込めることです。たとえば長さ
を課すと、許される波数は
に限られます。エネルギーは
となり、離散化します。
リングに閉じ込める場合は周期境界条件
を課します。このとき
です。自由空間では連続だった波数が、閉じ込めによって飛び飛びになります。量子ビットとは、この飛び飛びになった準位のうち、都合のよい二つを使う設計です。
コラム 2024大学院講義 第2回 1:23:00-1:30:00
閉じ込めて二準位を作る
講義では、井戸型ポテンシャルや量子ドットを入口にして、低エネルギー側の二つの準位だけを取り出す考えが説明されました。量子ビットは、どこかに抽象的に浮いているものではなく、閉じ込められた電子や回路自由度の離散準位を、情報の単位として使うものです。
この説明が効くのは、量子力学の最初に出てくる箱の中の粒子が、量子コンピュータの部品設計に直結しているからです。入門の例題は、実はかなり現代的な入口でもあります。講義では、そこで急に飛ばず、どこで実験が難しくなるのか、どの二準位を情報として読むのかを一つずつつないでいました。
井戸型ポテンシャルに電子を閉じ込めると、許されるエネルギー準位が離散化します。多くの準位があっても、低エネルギー側の二つだけを選び、そこを $|0\rangle$ と $|1\rangle$ と読めば、二準位系としての量子ビットが見えてきます。準位差に合ったレーザーやマイクロ波で遷移を起こす、という発想です。
ただし、言うのは簡単でも、実験は簡単ではありません。不純物、周囲の環境、余分な準位への漏れ、制御信号の精度が効きます。量子ドットも、電子を空間の三方向に閉じ込めることで人工原子のような離散準位を作る装置で、ディスプレイなどで聞く量子ドットとは同じ言葉を共有しながら、量子情報では二準位の制御対象として見られます。
講義では、この話の後に「誰も教えてくれない問題」に触れます。難しい内容を、既習の井戸型ポテンシャルから量子ビットへ、飛びのない形でつなぐことが大事だ、という教育上のメッセージです。量子力学そのものが飛び飛びの準位を扱うからといって、説明まで飛び飛びでよいわけではありません。
箱の中の粒子、周期境界条件、量子ドット、超伝導回路は、別々の豆知識ではなく同じ設計思想の変奏です。自由度を閉じ込め、離散準位を作り、そのうち扱いやすい二つを選びます。そこから量子ビットが始まります。
3. 超伝導量子ビット
超伝導回路では、電荷や磁束が量子化されます。超伝導リングを考えると、磁束量子
が自然な単位になります。リングを貫く磁束が整数または半整数に近い条件で、時計回り・反時計回りの永久電流状態がほぼ同じエネルギーを持つように調整できます。この二つの状態を
と書くと、二準位近似のハミルトニアンは
のように表せます。
Josephson接合は、この回路を単なる調和振動子からずらす役割を持ちます。調和振動子では隣り合う準位間隔が等しく、二つの準位だけを選んで操作しにくいです。非調和性があれば、
コラム 2024大学院講義 第2回 1:39:00-1:45:00
超伝導リングから人工スピンへ
超伝導リングに磁束を入れると、永久電流の向きで二つの状態を作れます。これを人工スピンとして使い、さらに多数並べて結合すれば、Ising模型を実験装置として作ることができます。
講義で印象的なのは、装置を作った人への敬意がそのまま物理の理解につながっているところです。量子ビット一個でも十分に繊細で、それを数千個並べ、相互作用まで制御するのは、式の美しさとは別種の難しさを持っています。
リング状の閉じ込めでは、波動関数に周期境界条件が課され、許される波数が整数でラベルされます。これを電気回路の側へ持っていくと、超伝導リングを流れる電流や磁束も離散的な自由度として扱えるようになります。閉じ込めて離散準位を作る、という考え方はここでも同じです。
超伝導では電子がCooper対としてまとまり、リング中を減衰しにくい永久電流として流れます。外部磁束を調整すると、時計回りと反時計回りの電流状態がほぼ同じエネルギーになり、この二つを人工スピンの $|0\rangle,|1\rangle$ として使えます。磁束量子やJosephson接合は、この二状態を作り、混ぜ、制御するための部品です。
講義では、一つの量子ビットを作るだけでも繊細なのに、それを多数並べて相互作用まで調整する装置を作る難しさが語られます。紙の上では $\sigma^z$ や $\sigma^x$ と一文字で書けますが、実機では材料、配線、ノイズ、読み出しが全部ついてきます。式の短さと装置の重さの差を意識すると、量子アニーリングマシンの見え方が変わります。
多数の人工スピンに局所場と結合を与えれば、Ising模型を物理的に作れます。量子アニーリングマシンは、最適化問題を解く箱であると同時に、人工的な多体系ハミルトニアンを動かす実験装置でもあります。
4. Pauli行列と一量子ビット操作
二準位系の基本演算子はPauli行列です。
時間発展は
です。ハミルトニアンに
5. 多量子ビットとテンソル積
二つの量子ビットを持つと、基底は
です。これはテンソル積
で作られます。一番目の量子ビットだけに
です。二番目だけなら
となります。相互作用は
です。添字だけで
6. Ising模型
古典Ising模型は、スピン変数
というエネルギーを与えます。
量子版では、
これは計算基底では対角行列です。つまり、各ビット列にエネルギーを割り当てているだけです。
そこに横磁場を足すと、
となります。
コラム 2024大学院講義 第6回 1:25:00-1:43:00
Ising模型を装置として作る
Ising模型は、紙の上では $\sum J_{ij}\sigma_i\sigma_j$ という短い式です。しかし量子コンピュータ側から見ると、これは量子ビットを並べ、局所場と結合器を調整して、大きなハミルトニアンを物理的に作る作業です。
講義では、$\sigma_i^z$ や $\sigma_i^x$ の添字が省略のかたまりであることも丁寧に展開されました。一つの記号の奥には、テンソル積で膨れ上がる行列があり、その行列を実機のパラメータで動かすところに量子コンピュータの計算があります。
Ising模型は研究室に入ると突然出てくることがありますが、講義ではそこで立ち止まり、添字付きPauli演算子をテンソル積として具体的に展開します。博士論文の審査でも基本的な量を問われることがある、という余談を交えながら、分からないときは基礎まで戻ってよい、という姿勢が示されます。
$\sigma_1^z$ は本当は $\sigma^z\otimes I$、$\sigma_2^z$ は $I\otimes\sigma^z$ です。物理の板書では恒等演算子が省略されますが、計算機で実装するなら省略されたテンソル積を復元しなければなりません。二量子ビットなら $4\times4$ 行列、三量子ビット、四量子ビットと増えるにつれて、ブロック行列が入れ子になっていきます。
局所場は対角成分を動かし、横磁場は非対角成分を作り、結合は量子ビット間の相互作用を作ります。D-Wave型の装置では、ユーザーが主に $h_i$ と $J_{ij}$ を設定し、横磁場を時間とともに下げることで横磁場Ising模型を動かします。装置は最適化器であると同時に、制御可能なハミルトニアンを持つ量子シミュレーターです。
最後には、ニューラルネットワークが巨大な関数を作るなら、量子コンピュータは巨大な行列を作る装置だ、という見方も語られます。Transformerやattentionとの類似を研究の入口として眺める発想は、Ising模型を単なる古典スピンの模型から、情報処理の広い言葉へつなげてくれます。
7. 測定と読み出し
最終時刻で計算基底を測定すると、ビット列
一回の測定で必ず最適解が出るとは限りません。したがって、量子アニーリングでもゲート型量子計算でも、同じ設定で何度も実行し、サンプル分布を見ます。物理の言葉では測定統計、計算の言葉ではサンプリングです。
8. 量子コンピュータの要点
量子コンピュータの要素を短くまとめると、次の四つです。
- 二準位系を作ります。
- 二準位系を十分に孤立させ、余計な準位へ漏れないようにします。
- Pauli演算子と相互作用を使ってハミルトニアンを設計します。
- 時間発展後に測定し、確率分布として結果を読みます。
量子アニーリングは、この四つをIsing模型に特化させた形です。だからこそ、量子力学の基礎、Ising模型、断熱定理、MCMC、統計力学が同じ講義の中に並びます。分野名は違っても、計算したいものは「状態がどこへ行くか」と「その状態をどう読み出すか」です。
PDF画像では、大学院講義2024板書 p.16以降で閉じ込めと量子ビット、p.24以降でPauli行列、テンソル積、横磁場Ising模型の流れを確認できます。
